地震

平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震は2011年(平成23年)3月11日14時46分に三陸沖(牡鹿半島の東南東約130km付近)の深さ約24km(暫定値)で発生したマグニチュード(Mw)9.0(暫定値)[4]の西北西-東南東方向に圧力軸をもつ逆断層型(CMT解)、太平洋プレートと北米プレート境界域における海溝型地震である。

気象庁発表によるM9.0は地震の規模としては1923年の関東大震災(大正関東地震)のM7.9を上回る日本国内観測史上最大、アメリカ地質調査所(USGS)の情報によれば1900年以降、世界でも4番目のものとなった。東北地方を中心として大きな被害を出し、1都9県が災害救助法の適用を受けた。地震の影響は広範囲に波及し、関東地方や北海道でも死傷者が出る事態となっている。

Wikipediaより)


まずは娘から。
私は14時にバイトを終え、娘の幼稚園に迎えに行っていた。
通常のお迎え時間よりやや遅く、さっさと帰っている園児も結構いた。
いつもどおりに、娘はすぐには帰らず園庭の鉄棒で遊んでいたら
園のスピーカーから聞いたことのない警報音が聞こえ、
「もうすぐ弱い地震がきます」という機械的な声が続いた。
何度かそれを繰り返したが、特に何もせず。
すると「まもかく地震がきます。10、9、8、7、……」
まさかのカウントダウン。
びっくりするも「でも弱い地震なんでしょ」という安心感もあって、
むしろ面白がっていたくらい。
「ゼロ」の後、「ん?あれ?」と思っているうちに、
園長先生が「園庭の真ん中に集まってください!」と叫んだので、
それにしたがうことに。
親子や先生合わせて15人ぐらいだろうか。
「あー揺れてる揺れてる」なんて言っていたのが、
「なんかすごい揺れてる!」になって、いよいよ来たのかと思った。
子供たちはハイテンションになる子(娘)や下向いて黙ってる子などそれぞれの反応。
私の横にいた園長先生が「こういう地震は長く感じるけど、1分ぐらいですよ」と言っていたの聞いて、
妙に安心した。「踊りたーい」とか言ってる娘を抱えてじっとしていた。
しかし、カウントダウンにはびっくりしたが、ちっとも弱い地震じゃなかったじゃないか。震度6弱

とりあえず地震がおさまったが、電車は動いてるはずがないので、歩いて帰ることに。
携帯はすでにつながらなかったので、公衆電話に駆け込み、私の実家に連絡。夫の実家は番号が分からない。
父親がひとりいて、何やら慌てていたが、大丈夫だった。
母親は出かけていたが、夜には電話がきて、あきれるほど大丈夫だった。
「ファミレスでお茶してたら、なんか揺れてらーって思ったけど、どうってことなかったわよ。
でも道が混んでて、バス4台待ったのよー」


娘と歩いてる間にも余震があり、思わず走り出してしまった。いや、避難できる場所を探すために。
郵便局の前で飛び出してきた職員さんと「怖いわねー」としゃべってたが。
娘もこのときになって、急に怖がり始めていた。「大丈夫よー」といいながらようやく帰宅。
家のなかは多少はぐちゃぐちゃしていたが、壊れたものなどはなく、思っていたより平気だった。


息子の学校は家から徒歩1分。近い近い。特に心配していなかったが、
いちおう災害時用のお迎え証を持ってお迎えに。すでに他の親が結構きていた。
なんか知らんが1時間近く待たされ、集団下校するということに。お迎え証なんて必要なかった。
息子は防災頭巾をかぶり、友だちとゲラゲラ笑いながら出てきた。
私たちは集団下校の列に混ざり、すぐに離脱して(近いから)帰宅。16時半。
部屋の惨状(といっても、パソコンの上にある書類やガラクタが落ちて散乱しただけ)を見て、
またゲラゲラと笑う息子。
しかし、テレビをつけたら、怖くなってしまい、「見たくない」といってこたつにもぐりこんでしまった。
仕方なくつけたケーブルテレビが大活躍。
息子は食欲までなくなってしまった。娘は変わらない。


子供たちはテレビ見て、私はパソコン眺めているときに夫が帰宅。17時半ごろか。
早めに仕事を切り上げ、バスに乗ったがあまりに動かなくて途中下車。
その後1時間ほど歩いてきたという。
夫は「祭りだ!」ってノリで、ニュースを見たがったが、息子が泣きながら嫌がって、
結局アニメチャンネルが延々続くことに。


夜になって夫の姉から連絡があり、
「所用で群馬に行っていて、車で帰ろうとしているところだが全く進まない、
子供がひとりで留守番しているからあずかってほしい」とのことで、
その後まもなく、中学生の息子が来た。
我が息子はこのイトコが大好きなので、だいぶ気晴らしになったようだ。
姉は夜中2時に到着。その子も帰って行った。私は寝ていたが。


翌日土曜日はひたすらこもっていた。ひたすらテレビとゲームで過ごしていた。
こういうときは仕方ないか。